生きることと考えること

バラク・オバマアメリカ大統領になった
どうやらアメリカ国民は「変化」を待ち望んでいるらしい


個人的には、オバマ人気を見るとかつての小泉の影がちらついてしまって、いまいち乗り切れないでいる
評価を定めるのは彼の仕事を見てからでも遅くないだろう


それにしても「変化」という言葉を無条件に喜ぶ態度には賛成できない
ただ変えればいいというものではない
問題のある部分を、良いほうに「変える」べきで、現状で問題ない部分はそのままでいい
「変える」のは、人々がより幸せに生活するためのはずだ
そのことを忘れてはいけないと思う


愛国心」という言葉にも、「変化」という言葉に現在つきまとっているのと類似した問題性を感じる


先日ある討論番組で、東大の学生が「どうしらたら多くの国民に愛国心を持たせることができるか」という発言をしていた
あの学生は、なぜ人々が愛国心を持つ必要があるのか、ということを考えたことがあるのだろうか


もし、そのように愛国心を持つ必要があるとすれば、それはやはり日本に住む人々が幸せに暮らすため以外にはない
一番大切にすべき価値は、個人の幸せであり、個人の命だと思う


しかしその価値の実現のためには、人々が言葉を交わし、共に協力して生きていくことが必要となる
個々人が自分の利益だけ考えて自分勝手に行動したら、その結果他の人に迷惑をかけることになるし、迷惑をかける方も、かけられる方も幸せではなくなってしまうからだ
だから、互いが幸せになるために他者を尊重するならば、自己と他者がそのなかで共に生活する共同体が、生活の上で重要な役割を果たしているという意識につながっていくだろう
そのような共同体の単位は家族から始まり地域社会、そして国家へと至り、現代ではそれを超えて国家間や世界全体へと広がりつつある


人々の幸福や生活を守るかぎりで、共同体は維持されなければいけない
(「愛国心」という言葉が語られるなら、そのような文脈を除いてはない)
しかし、共同体を維持するための行ないが、逆に人々の幸福や生活を侵すことになってはならない
そのような共同体は、共同体としての役割を果たしていないから、維持されることに意味はないことになる
その場合には、共同体の存続はあきらめてもいいと思う


大切にすべき価値、目的としての価値と、手段とを見誤ってはいけない
けれども現実には、目的と手段との転倒した事例が驚くほど多く存在する
現在の「変化」というスローガンや、「愛国心」の問題についてもそのことが言えるように思う


なぜそのような「転倒」が頻繁に起こるのか、ということについては自分にははっきりした答えは出すことができない
けれどそのような「転倒」を防ぐためには、人が人として生きているという、疑い得ない事実から始めて思考していくほかないように思う


「国家」という観念も「変化」という観念も、ふわふわしていて、それだけでは正しい思考を基礎づけることはできない
なんのための「国家」か、なんのための「変化」か、そのことをたえず問い続けていかなければいけない
その「なんのため」を見つけ出すための手がかりは、新聞やテレビのニュースや、難しい本などではない
自分の足元にある揺るぎない確かな事実、
理由も分からずこの世界に生まれでて、食べ、衣をまとい、住まい、愛し、やがては理由も分からず死ななければならない
そのように虚しくもあるひとつの存在として生きていること、そこからはじめるしか、正しい思考の道はないように思われる