もうひとつのこの世

「もうひとつのこの世」という言葉があるでしょ、これは石牟礼さんの言葉。僕はそもそもが共産主義者だからね。(中略)結局社会主義というものの本質は、ユートピアなのよ。だからそのユートピアっていうのは、一つは、「貧しい」ということがあるとすると、こんなに貧しくて餓死するものが出てくるような貧乏を解決したい、そういうこともあるでしょうね。それからいわゆる「権力」の抑圧というものがない社会にしたい、これもあるでしょうね。でも根本的にはね、人間と人間が、まさに出会える世の中を作ろう、作りたい、それが欲しい、と言ってるんですよ、社会主義はみんな。根本動機は。(51頁)

ところがね、社会というのは二面性があって、一つの統制団体であると同時に、もう一つは交わりの仲間でもあるんですよね。つまりいわゆる娑婆の中に、その娑婆を超えた人間の交わりがあるはずなんです。(中略)つながり、そういうのを仏法ではサンガと言う。だから、サンガとしてこの世があるはずなんだけど、そのサンガとしての世界というのは努力しないと出てこない。(中略)一方で権力関係やお互いのいがみ合い、ねたみ合いといった世界は努力しないでもそこにちゃんと現存している社会。(141-142頁)

だけども、その点はどう考えてもどう間違っても、ある種の経済組織、ある種の統治組織、ある種の行政組織、そういうものはね、ひとつの理想というものがそこでは実現できないのであって、こうするのが次善の策であろうというふうな、この辺でなんとかやっていくしかないだろうというものしか作れないんですよ。

そうすると、自分というものがこの世に生まれてきて満足するような人間のあり方というのは、一人一人が独立するしかないんですよ。一人一人が独立してね、自分の主人公になってね、そういう本当に独立した人間がある地域を介してね、地域というのは土地、土地は自然ということでもあるけれども、そういうものを介して、お互いが結びついて、その地域の生活を守り抜いていくということしか無いんですよ。(253頁)

だから問題はやっぱり、一つの繋がりね。どう言ったらいいでしょうかねぇ。一つのグループを作るってのが難しいんですよ、なかなか。(中略)自分たちだけの気持ちのいい世界を作ろうっていう党派になってしまうとつまんないんだよね。党派性というものを乗り越えるような、一つ一つの繋がりだね。それはやっぱりある課題を共にせんといかんと思うんだけど。(230-231頁)

つまり田中正造は、この谷中村に日本がある、国があると考えた。(中略)そういうふうな、「これは自分の国である、これが自分の国である、この国が滅びる時は日本という国、あるいは人類という国も全部滅びるんだ」という、そういうふうなものがなくなっている。つまり自分は一人である、自分は自分の考えで生きている、国からも支配されない、いわゆる世論からも妄想からも支配されないというあり方ができるのは、自分がある土地に仲間とともに結びついていると感じるからなんだ。ところがそういう基盤がなくなっているからね。自分が生きている土地に相当するのは、自分がともに生きてきた仲間なんだよ。自分がこの世の中で自分でありたい、妄想に支配されたくないという同じ思いの仲間がいる。それが小さな国である。自分が自分でありたいという自分と、同じく自分が自分でありたい人たちで作った仲間が、小さな国になっていく。そういうものをしっかり作るということが僕の思う革命なのさ。それ以外はない。(257-258頁)

渡辺京二『幻のえにし』弦書房、2020年)