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乙女塚、相思社、反農連は、それぞれ独自の活動のスタイルを持つが、目標は共通する。……そうしたいみでは、西欧をモデルとした近代化を急速に極度に、おしすすめることから生じた弊害を癒すための、日本全地のさまざまな市民運動および地域主義の動きに連動する。しかし同時に、水俣の運動がもつ特殊性がある。それは、動機づけの深さである。利潤追求を究極の目的とした企業と、そのために企業が駆使した近代技術によって、身体と生活とを破壊されつくした人間が、自力と合力によって、自らを滅したものとは異なる生産と生活の様式を生み出そうとする志の深さである。その動機づけの深さにおいて、水俣病患者による水俣再生への努力は、長崎、広島の被爆者の反核平和運動に匹敵し、共通するとわたしは考える。(鶴見和子「多発部落の構造変化と人間群像ーー自然破壊から内発的発展へ」『水俣の啓示(上)』、231−232頁)
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水俣の問題は魂の問題だというふうにとらえたのが、『アニマの鳥』なのね。あれは水俣問題の根底的なところをとらえた。そして思想的にとらえると環境問題になる。そうすれば環境問題としてとらえて悪くはない。ダイオキシンとか、それからいま環境ホルモン問題が起きてるでしょう。だからそういうものにどんどんつながっていくからね。実際にいま、それが展開しつつあるのよ、地球的規模で。だからそういうものに具体的につながりますよという警告を発することはいいことなの。だけど根底的には私は魂が抜けちゃったというところに事の起こりがある。その魂をだれに入れてもらうかというと、ほんとに丸い言葉を使ってる人、あるいはその言葉さえも使えない人なの。そういう人たちの心を聴くこと。そういう人たちが自然の大きな生命体の、生命のリズムというか、リズムって嫌だけれど、生命の響きを聴いてる。それと共鳴りしながら生きるという、そういう生き方を、おそらく「くに」とか、ひらがなで書く「くに」ね、「もう一つのこの世」と呼んでるんじゃないの?
私ね、これはほんとに宗教という言葉でくくるのも嫌なの。だから民衆の精神史の問題なのよ。それもまた硬い言葉だけれどね。なんていっていいか、私、言葉を失っちゃう。
磨いて玉に
鶴見 その言葉のことで、私のプリンストン大学のお師匠さん、マリオン・リーヴィ教授という、社会学の大先生がいるの。でね、その先生がはじめて日本に来るときに、「私は二人の人に会いたい。一人は柳田國男さん、もう一人は滝川政次郎さん。滝川政次郎さんは『日本社会史』という本を書いた。自分はその本をもう線を引っぱって一生懸命読んだんだ」って。(中略)そうしたらね、柳田先生がこう言われたの。「外国からいろんな学者が来ます。だけど日本には二つの違う種類の人間がいるんですよ。一つは四角い言葉を使う人種、もう一つは丸い言葉を使う人種がいるんです。(中略)だからあなたはほんとに日本社会のことが知りたいなら、丸い言葉を使う人の話をお聞きなさい」って。もう私はそばで聞いててびっくりしたの。(714頁)
鶴見 だからみんなそれを意識して、分裂して、こっちのときはこの四角い言葉、こっちのときは何って、使い分けしてるわけよ。だけど石牟礼さんの場合には、使い分けをしないで橋渡ししようとしているわけ。
石牟礼 そういうものらしいです。表現というのは、飛翔しなきゃいけないんです。飛翔するときは、踏台というか、いるでしょう。自分が分裂してる…。その裂け目にいっそ逆さになって投身して、着地点を踏み台にする。自分が踏み台。
鶴見 踏台になって、それで、どっちに飛翔するの。
石牟礼 それは丸い言葉というわけではありませんけど、やっぱりそれは私自身の表現。現実とはちょっとちがう。飛翔のときに憑依もおきる。
鶴見 そうすると、あなた自身は、丸い言葉を磨いて玉にするのね。つまり、ふつうの人は丸い言葉をふつうのときには使って、役をするときは四角い言葉を使って、このあいだが分裂してるのよね。だけど道子さんはね、そのあいだに溝があるということを意識して、それじゃあどうしたらいいかと、自分の言葉をつくるときは、四角い言葉に返るのではなくて、丸い言葉をどのように磨きをかけたら光が出るかという、それをやってるんじゃない。それで、『苦海浄土』を書いて、『アニマの鳥』を書いているんじゃない。
(中略)
石牟礼 分裂して、ずーっと引き裂けていくんですよね。で、もう最後の一番基盤の低いところまで引き裂けてしまえば、もう本当に別々になりますから、別々になる直前までがまんして、たぶん、たぶんですよ、引き裂ける寸前のところに踏みとどまって、立ち直るというか、立ち直るというのは、それが合併するというのと違います。そのあいだに何か炎のようなのが立ちのぼる…(719〜720頁)
(石牟礼道子、鶴見和子「魂と『日本』の美 ー 水俣から学ぶ」、『石牟礼道子全集 不知火 第16巻』)
書くことの”小回り”
どんなこともある個人が語るというのである限り、中心をもつ円の弧の形をしている。つまり、書く人はあることを語ろうとするのだが、自分の言いたいことを言おうとする余り、しばしば何が本来語られなければならないかという限定をはみ出て、”小回り”してしまう。あることを語るには、腹八分ではないが、語り残しがあることが大切だ。それは、次に書くもので語ればよい。それが著作のリズムを作ることになる。指離れのよいキーボード、子離れのよい母親のように、自分の考えに余りにとらわれずにあるところで、自分の考えと別れること。そういうことを、わたしは著者の口から聞いたことはないが、その呼吸を、著者の身ぶりを見ていて、教わった。