人生

希望のない人生というのはたぶんありえない。そして希望には、遂げるか、潰えるかの、二者択一しかないのではない。希望には、編み直すという途もある。というか、たえずじぶんの希望を編みなおし、気を取りなおして、別の途をさぐってゆくのが人生というものなのだろう。(189頁)

鷲田清一『だれのための仕事』講談社学術文庫、2011年)

書くことの”小回り”

どんなこともある個人が語るというのである限り、中心をもつ円の弧の形をしている。つまり、書く人はあることを語ろうとするのだが、自分の言いたいことを言おうとする余り、しばしば何が本来語られなければならないかという限定をはみ出て、”小回り”してしまう。あることを語るには、腹八分ではないが、語り残しがあることが大切だ。それは、次に書くもので語ればよい。それが著作のリズムを作ることになる。指離れのよいキーボード、子離れのよい母親のように、自分の考えに余りにとらわれずにあるところで、自分の考えと別れること。そういうことを、わたしは著者の口から聞いたことはないが、その呼吸を、著者の身ぶりを見ていて、教わった。

加藤典洋「解説」、鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』岩波現代文庫、所収)

沈黙と表現

名前は社会からあたえられる。しかし、それは便宜的なものだ。名前をまだつけられていない状態の自分から、つねにあらたに考えてゆかねばならない。(30頁)

黙っている人間は、ただ黙っているだけじゃなくて、沈黙のなかの記憶というのはあるんだ、ということですよ。/満州事変からずっと、少しずつ動員されて、大勢の人が死んでいる。その記憶が集積されて、一九六〇年に爆発点にきたんですよ(284−285頁)

(『戦争が遺したもの』鶴見俊輔上野千鶴子小熊英二新曜社、2004年)

 

時間と他者

理論的に語るのは難しいが、「時間が流れている」という実感を私たちは現実的にはありありと持つことがある。それは私のうちで誰か「私ならざるもの」が語り始める時である。私の中で他者が語る時に時間が流れる。/私とは違う視座から世界を眺め、私とは違う度量衡で事物を考量し、私とは違う論理で思惟し、私とは違う語法で語る「私ならざるもの」が私のうちで語り始めるということが、現実にはたしかにある。そしてその時、私はもう単独者ではない。その同伴者との「終わりなき対話」が始まるからだ。その往還を通じて時間は流れる。(133頁)

ユダヤ神秘主義カバラーによれば、神の最初の行為は創造ではなく、収縮(消失)であった。神の自己収縮・自己消失によって空いた空間に万象が生じるのである。万象は無起源的に自生するのではない。〈無限者〉が立ち去ったことの効果なのである。創造とは撤収のことであり、始まりとは消失のことである。このカバラー的考想はレヴィナスの哲学のいたるところにその痕跡をとどめている。(152−153頁)

内田樹レヴィナスの時間論』新教出版社、2022年)

もうひとつのこの世

「もうひとつのこの世」という言葉があるでしょ、これは石牟礼さんの言葉。僕はそもそもが共産主義者だからね。(中略)結局社会主義というものの本質は、ユートピアなのよ。だからそのユートピアっていうのは、一つは、「貧しい」ということがあるとすると、こんなに貧しくて餓死するものが出てくるような貧乏を解決したい、そういうこともあるでしょうね。それからいわゆる「権力」の抑圧というものがない社会にしたい、これもあるでしょうね。でも根本的にはね、人間と人間が、まさに出会える世の中を作ろう、作りたい、それが欲しい、と言ってるんですよ、社会主義はみんな。根本動機は。(51頁)

ところがね、社会というのは二面性があって、一つの統制団体であると同時に、もう一つは交わりの仲間でもあるんですよね。つまりいわゆる娑婆の中に、その娑婆を超えた人間の交わりがあるはずなんです。(中略)つながり、そういうのを仏法ではサンガと言う。だから、サンガとしてこの世があるはずなんだけど、そのサンガとしての世界というのは努力しないと出てこない。(中略)一方で権力関係やお互いのいがみ合い、ねたみ合いといった世界は努力しないでもそこにちゃんと現存している社会。(141-142頁)

だけども、その点はどう考えてもどう間違っても、ある種の経済組織、ある種の統治組織、ある種の行政組織、そういうものはね、ひとつの理想というものがそこでは実現できないのであって、こうするのが次善の策であろうというふうな、この辺でなんとかやっていくしかないだろうというものしか作れないんですよ。

そうすると、自分というものがこの世に生まれてきて満足するような人間のあり方というのは、一人一人が独立するしかないんですよ。一人一人が独立してね、自分の主人公になってね、そういう本当に独立した人間がある地域を介してね、地域というのは土地、土地は自然ということでもあるけれども、そういうものを介して、お互いが結びついて、その地域の生活を守り抜いていくということしか無いんですよ。(253頁)

だから問題はやっぱり、一つの繋がりね。どう言ったらいいでしょうかねぇ。一つのグループを作るってのが難しいんですよ、なかなか。(中略)自分たちだけの気持ちのいい世界を作ろうっていう党派になってしまうとつまんないんだよね。党派性というものを乗り越えるような、一つ一つの繋がりだね。それはやっぱりある課題を共にせんといかんと思うんだけど。(230-231頁)

つまり田中正造は、この谷中村に日本がある、国があると考えた。(中略)そういうふうな、「これは自分の国である、これが自分の国である、この国が滅びる時は日本という国、あるいは人類という国も全部滅びるんだ」という、そういうふうなものがなくなっている。つまり自分は一人である、自分は自分の考えで生きている、国からも支配されない、いわゆる世論からも妄想からも支配されないというあり方ができるのは、自分がある土地に仲間とともに結びついていると感じるからなんだ。ところがそういう基盤がなくなっているからね。自分が生きている土地に相当するのは、自分がともに生きてきた仲間なんだよ。自分がこの世の中で自分でありたい、妄想に支配されたくないという同じ思いの仲間がいる。それが小さな国である。自分が自分でありたいという自分と、同じく自分が自分でありたい人たちで作った仲間が、小さな国になっていく。そういうものをしっかり作るということが僕の思う革命なのさ。それ以外はない。(257-258頁)

渡辺京二『幻のえにし』弦書房、2020年)

傷を愛せるか

思想家のハンナ・アーレントは、「赦し」と「約束」について語っている。彼女はそれらが「再開の可能性への賭け」になるという。復讐にたいしての「赦し」、支配にたいしての「約束」。

復讐の代わりに「赦し」を、というのはわかりやすい。復讐とは過去のくりかえしであり、赦しは過去の呪縛からの解放になるからだ。では支配の代わりの「約束」とはどういうことなのか。[中略]「約束」とはそれ時代が100パーセント守られる保証はなく、夢であり、祈りであり、希望であり、信じることである。「約束」は、双方的な関係の中でのみ成り立つ。約束する側でなく、約束される側がそれを受け入れ、もう一度信じてみるという危険を冒すことによって、かろうじてそれは成り立つ。

[中略]

明日、天気になあれ。みんな、幸せになあれ。そう思い、そうつぶやく。そう囁き、そう歌う。

宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』ちくま文庫、2022年、59~60頁)