自分たちで作る

自分たちで何かを作るってことはね、要するに政府に頼らない。〔中略〕自分たちで世界を作らなくっちゃ。自分たちで作る世界の形というのはいろいろあると思うけどね。一つは、自分の言葉を使うこと。

近ごろ、自分の言葉を話せなくなってるの。〔中略〕抽象と概念でしゃべってる。昔の庶民は抽象語、概念語ではしゃべらなかったの。自分の生活語でちゃんと自分の考えは短く言えてたの。今の人はね、普通の市民だけではない、テレビに出てくるいろんな解説者にしても、政府の役人にしても、総理大臣にしてもしゃべるのが長い。

〔中略〕

だからね、自分の言葉を持とうよ。マスコミ語でしゃべらない、自分の言葉で喋る、たたかれることを恐れない、ということをやっていきたいですね。生活語でね、なるべく。

渡辺京二『肩書きのない人生』弦書房、2021年、55〜60頁)

世界の超越

で、学校から帰る前に公園に寄ってた。泣きべそかいて家に帰る訳にはいかないからね。公園には木があるのよ。今思うと木が語りかけてくれたんだと思う。「学校のクラスだけが世界じゃないよ。見てごらん、自分達を。もっと違う広い世界があるのよ。お前が生きていく世界がちゃんとあるのよ」と木が教えてくれた。その時どうして耐えられたかというと一つは今言ったようなこと、もう一つは本があったからなの。〔中略〕

中学二年くらいから文学書を読み始めたの。漱石とかゲーテだとかトルストイだとか、それを読み出すと世界が一変したね。当時は戦時中でビンタ張られるし、大変だったんだけど、そんな世界を超越できるんだ、家庭内には親がいるんだけど、親も超越できるんだ、自分は一個の独立した人格なんだ、そういう社会も家庭も超越できるんだ、という感覚を持ったね。それは非常に大きい、自分が生きていくうえでのね。いろんなことがあってもそれを超越する見方、いろんなことを相対化できる。そうすると学校での悩み、家庭での悩みいろんなことを超越できる。

渡辺京二『肩書きのない人生』弦書房、2021年、13~14頁)

木を伐ること

山林には、森には、確かにこの世のものとは、別の自由の空気が流れている。山鋸一本持って森に入れば、そこには原初の生命の響き合いがある。もの言わず流れているこの世とは別のエネルギーがある。その響きに触れ、エネルギーに触れる時、僕はそれが人間にとって最も大切なものであることを感じる。これから伐り倒す一本のシイの木の前に立ち、その木肌に触れると、人間同士で握手をしたり、山羊の頭をなぜたりニワトリを抱いたりする時とは全く別のやり方による生命との触れ合いがある。木肌は冷たく湿ってさえいるが、その奥からは豊かで純潔な樹液の流れが伝わってくる。僕はこれからそのシイの木を伐るのだが、僕達の出会いには、伐り倒すものと伐り倒されるものの関係はない。チェンソウではなく山鋸を使う限りは、木は伐られることをむしろ喜んでいるように感じられる。

山尾三省『狭い道』野草社、2018年、154〜155頁)

純潔と差別

人類が一つの場所になかなか定住しなかった大きな理由の一つは、疫病にあった。定住することで全滅の危険があることを、経験的に学んだのである。共に生きるということは、ある程度の汚れを許容するということでもある。どこまでも純潔を求めるところから差別が生まれる。あらゆる差別は、程度の問題を、選択の問題だと読み替えることから生まれてくる。

平川克美『共有地をつくる』ミシマ社、2022年、2頁)

思想

ひとつの理念なり、思想的営為なりが、公共性を、市民権を、持つようになってくる、ということは、たぶん、よくないことにちがいない。思想とは孤立性をそのバネにするときのみ自立しうる。

石牟礼道子「自分を焚く」『流民の都』大和書房、1973年、440頁)

共同体と運命

「ある共同体に強い運命が降りかかったとき、共同体の一人ひとりから価値観の表出が始まる。そこに対話が生まれ、ドラマが生まれる」

 私は長年、このように考えてきました。

平田オリザ『ともに生きるための演劇』NHK出版、2022年、4頁)

『山口啓介 後ろむきに前に歩く』広島市現代美術館、2019年

「つまり、消費文化というものは、残さないことを前提として、ひたすら消費し尽くすことで、新たなる需要とさらなる供給の連鎖を生み出す必要に運命づけられており、その意味では「根絶やし」の思想は消費社会の必然だったとも言えるのではないか。そして、ここで言う、残す=遺すという意味は、この「根絶やし」の思想に関る消費社会への異議申し立て、反抗として、捉えなおすことができるのではないか。」(p.163)