いろいろな場所で

神楽坂に麦マル2という店があった。
今もある。
高いマンションの麓にある古い家屋を改装した店で、
まわりには蔦がはっている。
大学のときから、アパートまでの帰りによく寄っていた。
店に行くと店主はいつも銭湯に行っていていない。
常連さんが迎えてくれることも多く、
そのまま彼・彼女らと、真面目な話やどうでもよい話などをよくした。
店主が戻ってきて、明るいうちからワインを飲みだす。
つられてこちらもビールを頼み、終電までいるということもよくあった。
元気なときも、心身が参っているときにも通っていた。
店の奥にある一人掛けの黒いソファーに座っていると、いろいろな音が聞こえる。
飲み物が準備され、階段をのぼってそれが運ばれる音、
食器を洗う音、小豆を煮る音。
まんじゅうを蒸す湯気。
そこにいると、胸のすこし下の方にいつの間にか溜まってしまっていた重いものが、
すこしずつ溶けだしていくような、そんな感じがした。
あれこれ細々とかまってくれるわけではないけれど、
でもそこには、たしかな「癒し」のようなものがあったと思う。

丁野くんはその店で働いていた。
最近高知に帰って come2 というお店を開いたという。
鳥取の友人が紹介してくれた行ってみたい場所もあったので、高知へ行ってみることにした。
come2 のおもては麦マルとよく似ていた。
植物がたくさんあって、古びた木に白色の文字。
でもなかは麦マルとは少しちがっていた。
もともともう一人の共同経営者と始めた店らしく、丁野くん以外の雰囲気も感じる。
高知まで長く電車に揺られ疲れていたので、ソファーに腰掛け、
久しぶりに丁野くんといろいろ話をした。
高知にいる間、何度か come2 へ足を運んだ。
そうしてひとつ気づいたことがあった。
そこにいると、どこか疲れて波打っていた自分のなかの流れがすっと静まっていくような、
静まって初めて理解する乱れに気づかせてくれるような、そんな感触があった。
徐々にこういうことに気づいて、よかった、と思った。
ここには自分が麦マルで一番大切だと感じていた部分が受け継がれている、
そう思えたからだったと思う。

でもなぜ、受け継がれていると感じることが、喜びとなったのだろうか。
受け継ぐ・継がれることには、宗教性の本質的な部分が関わっていると僕は考えている。
宗教などというと大げさに聞こえるかもしれないけれど、
宗教とは、人間の生に「意味」を与えるもの、
「その生」は無駄ではなかったと保証する仕組みのことだろう。
その仕方として(おそらく)もっとも普遍的なのは、
「その生」がそれとは別の存在によって継承されることだ。
宗教教団では多くの場合、その別の存在は「神」を指す。
しかしこういった宗教性は、特定の宗教教団のなかだけに限られるものではない。
ごくありふれた日々の生活の中にも、宗教性は遍在しているように思う。
たとえば「あと継ぎ」というのは、ある種の宗教性を帯びているのではないだろうか。
職人の技術でも、お店でも、あるいは学問でも、
後継者によって先達の「その生」が作り出したものが引き継がれ、意味を与えられる。
「その生」は他によって引き継がれ、先達の生は「無駄ではなかった」つまり「意味」をもつことになるのだ。
このことは、とりわけ自分自身の存在について、切実であるだろう。
しかし高知に行って気がついたのは、
自分自身でなくとも、その存在が受け継がれることが、自分にとって喜びとなるものがある、
ということだった。
あのときあの場所にあったものが、きちんと他の場所の別の時間に引き継がれている、
大切に思っていたものが、永遠に存在すると感じられる、そういう喜びだ。
でもここでもう一つ疑問が浮かんでくる。
なぜ、自分自身とは別のものが受け継がれることが、自分にとっての喜びとなるのだろう。
人間にとって、その存在の意味づけが一番必要なのは、自分自身であるはずだ。
それなのになぜ、自分とは別のもの・他なるものが継承されることにも、深く喜ぶことができるのだろうか。
この問いには、すぐに答えが見つからなかった。

丁野くんのところ以外で高知で訪れてみたいと思っていた場所に、
ワルンと歩屋という二つの食堂があった。
ワルンは東京の中野にある、カルマという店で働いていた人がやっている食堂。
歩屋はそのワルンで働いていた歩さんがはじめたお店。
鳥取で食堂カルンという店をやっている佐々木さんが、以前カルマとワルンの両方で働いていて、
その二つの食堂を紹介してくれたのだった。
どちらも印象に残るお店だったけれど、
僕はカルマにもワルンにも歩屋にも、一、二度しか行ったことがない。
だから、一体どんな風にカルマやワルンが受け継がれているのか、まだよくわかならない。
でもその二つの店をよく知っている人なら、そこへ行ったらうれしい気持ちになるのかもしれない。

最後に浮かんできた疑問について、まだたしかな答えはもてていない。
ただ(ある側面から)ひとつ言えると思うのは、
自分以外のまわりの存在がきちんと受け継がれていると、
自分自身の存在もきっと同じように受け継がれていく、
そういう安心感を与えてもらうことができる。
だから、自分とは別のもの・他なるものが継承されることに、僕は深く喜ぶことができたのかもしれない。
そういう社会は、居心地よい社会なのかもしれない。