よく見る、ということ

大阪にある星ヶ丘洋裁学校で西淑さんの展示をしていて、
その会期中7月27日に行われたイベントに参加してきた。
その日は西さん以外にも、
食べ物を出す食堂カルン(鳥取)と飲み物のアグネスパーラー(東京)、
それからジブリの映画に出てきそうな星ヶ丘洋裁学校の園長先生がいた。
この園長はやたらと人を褒めるのが上手くて、
忙しくはたらく若者たちを、始終褒めちぎっていた。
ところでこのときのことについて、ある知人がこう言っている。
この場を作っていた人たちはみんな自意識がなく透明で、
そのことが、輪郭がはっきりした作品をつくりだしていた、と。
輪郭がはっきりしているとは、よいものを作り出していたということだろうと思った。

自意識のある/なしというのは、どういうことなのだろうか。
「自意識」という言葉はいろいろな文脈で使われて、
その意味も文脈によって変化する。
(広い意味で)作品をつくる場合の「自意識」というのは、
これを作った「私」を見てほしい、そしてそれによって「私」を認めてほしい、
という意識のことではないかと思う。
「私」を認めるのは、自分以外の誰か、他者である。
つまり他者の視線を意識しながら作品をつくるということ、
他者の評価を意識するというエレメントが制作過程にはさまって、
それが作品に小さくない影響を及ぼす状態、といえるのではないだろうか。

では「自意識がない」とはどういうことだろう。
これは反対に、作品を作るときに他者の評価を意識することがない状態、
自己の内側から生まれる「つくりたい」という欲望だけにしたがっている状態だろう。
(したがうという感覚を欠いたまま)ひたすら自己にしたがい、
ただただ、目の前の対象(作品)に向かっている状態。
このとき「自意識」は消えている。
「つくりたい」という対象に向かう気持ちだけが、その人を動かしているのだ。

自意識があるのは、他者(の評価)を意識しているときで、
自意識がないのは、ただ自己のみにしたがっているとき。
ここには、このような構図があるように思われる。
では、なぜ自意識がない方が、よいものが生まれるのだろう。
なかなか簡単に答えられる問いではないし、まだ十分な確信はもてていないのだが、
一つ言えるのは、
自意識があると作品がぼやけてしまうのは、
作者の意識が、対象としての作品と、
自己自身(に対する他者の評価)に分裂し拡散してしまっているからではないだろうか。
その結果対象がよく見えなくなってしまい、作品の質が落ちる。
だから自意識がないときの方が、
輪郭のはっきりした良いものをつくることができるのではないだろうか。

ある知人の日記を見て、ぼんやりとこんなことを考えた。