比喩の人

先日、加藤典洋さんの『日本という身体』という本を読んだ
加藤さんの専門である日本文学の作品を手がかりに、
日本とは、日本人とはいったい何か、を問うた本だ
僕はこの人のことは結構信頼していて、
これまでにも『アメリカの影』や『日本風景論』などの論考を夢中になって読んだことがある
(著作としては『敗戦後論』がいちばん有名だと思う)
加藤さんの文章は決して読みやすくはない
というかむしろ、わかりにくいといっていい
その理由のひとつは、比喩が多いからである


ところで、なぜ比喩が多いと読みにくい文章になるのだろうか?
比喩はふつう、文章を具体的にわかりやすく説明するものとして使われるはずである
一般的な文章では、議論の核心となるような抽象的・分析的な文言について、
読者に明確なイメージを与えるために、比喩とか例えとかを使うことが多い
たとえば内田樹さんは、そういうのがけっこううまいと思う


しかし加藤さんの場合はそうでなない
結論がだいたい比喩のみで終わっているのである
そしてそれを裏付ける抽象的・分析的な部分は欠如していることが多い
たとえば、『日本という身体』には以下のようなフレーズがある

わたしの観測によれば、このわたし達のいる場所ももしこれを穴の様相で見るなら、
このベトコンの穴に変わらない。
難民の娘のいうように、わたし達はここに「落ちて入った」。
ここから出るには「落ちて出」るしかない。
しかし、この「日本的なるもの」という名のベトコンの穴を、
これまで、わたし達は、「上がって出」ようとしてきた。
丸山真男から柄谷行人まで、そこから脱出しようとした試みは、
ことごとく方向を誤ってきたのである。
『増補版 日本という身体』(河出文庫)、11頁

この部分ではひとつの結論めいたことが語られているが、
「落ちて出る」とか「上がって出る」とか、
熟読してみても、
なんだかわかったようなわからんような、という感じがつきまとうフレーズである


では、そんなすっきりしない文章のどこがいいのか?
僕は加藤さんの文章をけっこう好んでいる、と書いたが、
その理由は、これから述べることと関係している
***
「比喩」について、以前著者本人に聞いたとがある
加藤さんは、「比喩」というのは「ものごと」が「人間の思考」として生まれ出る、
その原型的なイメージのことではないか、といっていた
僕はこれを聞いて、驚くと同時に深く納得してしまった


ふつう比喩というと、なにか「真実のことがら」があって、
それをわかりやすく言い直すための「道具」というふうに位置づけられているような気がする
つまりここで比喩は、「真実のことがら」に付随する、なにか別の、重要度の低いものとされている
しかし加藤さんがいうのは、そうではなく、つまり比喩は道具などではなく、
比喩が「真実のことがら」そのものなのだ、ということである


わかりにくいので、もう少し具体的に言い直してみる
ある日、夕日を見て「炎のように赤い夕日だ」と感じたとする
常識的にいえば、夕日の赤は、炎によるものというよりは、
太陽からの光線とか、地球の自転とか、人間の視覚の構造・・・
といった様々な要素の相互作用として、科学的に説明される
それが「真実のことがら」である、とされる
だから、夕日の赤は炎の色によるのではない、と。
しかし、本当にそうか、というのが加藤さんのいっていることだ
いくら科学的説明を尽くしたからといって、
生きているわたしたちは、それをリアルな現実のイメージとして、実感することができるだろうか
いくら科学的データを拾い集めたところで、「あの夕日」はわたしたちの心には浮かんでこないのではないだろうか
それよりもむしろ、「炎のような夕日」という比喩的な表現の方が、
わたしたちの体験を描きとるリアルなイメージを提供しているのではないか、ということを加藤さんはいっている


ちょっとわかりにくい言い方になってしまったが、
加藤さんの文章は「比喩」というものの可能性を駆使した魅力的な文章であるように思う