『古寺巡礼』

先日、奈良の寺をいくつか訪れる機会があった。
その際、以前から読もうとしてなかなか入り込めなかった『古寺巡礼』を持参した。
倫理学者である和辻哲郎が、仏教美術の研究のため奈良を訪れた時の記録である。
彼はこの本はあくまで美術を論じるものであり、宗教の著作ではないと言っている。
しかしそれでも、この本を読んでいると心落ち着かされる時間があった。
宗教美術の美しさを感じることは、すでに宗教的行為なのではないだろうか。


本書は1919年に出版され何度か版を重ねるが、
やがて戦時下となり「この書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来」、
それから戦後の1946年まで絶版となる。
その理由は、奈良時代仏教美術の中心を担ったのが、
朝鮮や中国などから渡来した人々であることを強調する記述があるからではないかと思われる。
和辻哲郎のような人の著作までもが「不穏当」とされるような時代は、
はるかに過ぎ去り戻ることはないものと思っていたが、
今この本を読むと、和辻の感じていた切迫感を感じることができてしまう。


本書を読む中で、以下のような記述を見つけた。
これを書いたのは1919年のはずだが、彼はいったい何を思ってこう記したのだろう。
東大寺を訪れた場面である。

わたくしは中門前の池の傍を通って、二月堂の細い樹間の道を伝いながら、古昔の精神的事業を思った。そうしてそれがどう開展したかを考えた。後世に現われた東大寺の勢力は「僧兵」によって表現せられている。この偉大な伽藍が焼き払われたのも、そういう地上的な勢力が自ら招いた結果である。何ゆえこの大学が大学として開展を続けなかったのであろうか。「僧兵」を研究した知人の結論が、そぞろに心に浮かんで来る、ーー「日本人は堕落しやすい。」(和辻哲郎『古寺巡礼』岩波文庫、221頁)


今を生きる人間としては、「堕落」などと言って、すませているわけにもいかないのだが。