原発の悲しみ

山口県の瀬戸内側に、祝島という小さな島がある。
先日、知人に連れられてその島を訪れた。


まわりを塀で囲まれた屋根の低い家屋が多く、路地は狭い。
海と縁遠く育った人間なら、海外にいるような印象を受けるかもしれない。
夏に台風が吹き荒れる厳しい気候が、そのような家並みを形づくってきたのだろう。


祝島の向かいの半島の先端では、原子力発電所の建設計画がもちあがっている。
島の人々はその計画が発覚してから二十年以上もの間、反対運動を続けてきた。
僕の知人はその運動に関わっている。
島では現在9割の住民が原発に反対しており、残りの1割が賛成派となっている。
反対派の人々は毎週月曜日に、島内を行進する原発反対のデモを行っている。


実際に現地に足を運んでみて、自分も原発についてきちんと考えなければならないと思った。

***

原発が人々から反対を受ける理由として第一に考えられるのは、原発から発せられる放射能の危険性だ。
地震など非常事態の場合はもちろん、通常運転時でも放射能の漏洩を完全には防ぎきれないといわれている。
だから多くの場合、原発が建設される土地付近の住民は建設に反対する。


しかしそれにもかかわらず、日本には多くの原子力発電所が存在している。
それはなぜか?
――金銭が人々の意思を曲げてきたからだ。
原発が建設される自治体には莫大な金額が給付されるといわれている。
このカネが、地元住民の間に反対派と推進派の間に分断線を引いていく。
それを受け取るか受け取らないか、すなわち反対にとどまるか賛成に転じるかにより、
住民は「敵」と「味方」に分断されてしまうことになる。
しかし、ひとまずカネを受け取る受け取らないの是非は、ここではおく。
さしあたり考えてみたいのは別のことだ。


原発によって同じ土地に住む人々が「敵」と「味方」に切り裂かれる、それを望んでいないのにもかかわらず。
このように原発によって人間の関係が決定されしてしまうのは、とても悲しいことではないだろうか。
たとえば隣に住む隣人が「敵」であれば、彼/彼女とは口をきくことはない。
隣に住む人々が同じ音楽を聴き、同じ小説を読んで感動していても、
彼ら/彼女らはその感動を共有することがない。
お互いが「敵」であるがゆえに。
たとえ同じようにミスター・チルドレンの音楽を聴いて育ち、
同じように村上春樹の小説に感動し、
同じようにカレーライスを毎日食べても飽きないくらい好きだと思っていても、あるいは、
ある日同じように「今日の空は雲が高いから、そろそろ秋が近いのかもしれない」と思っても、
そのようなすべてのことは、彼ら/彼女らの関係の中で意味をもたない。
そのようなことについて、言葉が交わされることはない。
なぜなら、お互いは「敵」なのだから。
敵同士は憎み合う。それ以外のことは問題にはならない。


彼ら/彼女らは、ある日「敵」同士になってしまった。
突然天災のように降ってきた、原発という「分断線」によって。
しかし、間違いなく、原発は「天災」などではない。
それは人間が生活の利便性の追求のために作り出した巨大な装置だ。
その装置は、現在の日本国民の生活に必要なエネルギー水準を維持するために必要であるという名目で、
一定の日本国民から支持されている。
しかし現地の住民の生活を一変させ、
人々に大きな悲しみを生み出してまで追求しなければならない「生活の利便性」とはいったい何か、
それを考えなければならない。
トイレの便座を自動で上下させるためとか、携帯電話でテレビを見るためとか、
そんな利便性がどれほど重要だろうか。
いったい誰に、そんなつまらない利便性のために、一部の人々に悲しみを強いる権利があるというのか。


人が生きていく上では、もっと大切にしなければならないものがあるだろう。

***

このように考えたとき、自分は原発に賛成するわけにはいかないと思った。


祝島島民の会では、現在原発建設反対の署名を行っています。
http://blog.shimabito.net
現地では、先日中国電力によって埋め立て工事が開始され、状況は切迫しているようです。
署名活動に協力しようと思われる方は、直接現地に送っていただくか、僕まで連絡いただければ幸いです。


また、祝島に魅かれた二人の映画監督が、現在島に関する映画を製作しています。
http://ameblo.jp/rokkasho/