「ゾウガメのソニックライフ」

チェルフィッチュの新作、「ゾウガメのソニックライフ」を観てきた。
のだけれども、あまり面白いとは思えなかった。
半信半疑ながらもその理由を推測すれば、
今回の場合、芝居のメッセージが明確に言語化(セリフ化)されていたからではないだろうか。

僕がチェルフィッチュに魅力を感じていた部分は、
自らが生活する日常のなかで感じている何ともいえない窮屈さ、
言語化することすらできない窮屈さを、
限定された演劇空間のなかで、表していてくれたからだ。
その独特な振り付けやセリフ回し、セット等によって、
単なる散文的言語とは異なる形で、そのような散文的言語のもつ限界を超えて、
表象(再現前化)してくれていたからだ。
この表象の全体が、演劇から放たれるメッセージとなる。
目の前にメッセージとして表象された自らの日常を観ることで、つまり日常を客観的に捉えることで、
日常からわずかに解放される。
あるいは、窮屈な日常からすこし自由になれる。
それがチェルフィッチュの演劇のもつ魅力のひとつだったと思っている。

けれども今回の題目では、そのような日常についてのメッセージが、
セリフ(散文的言語)として表されていた。
そうすると、「大事な何か」が逃れてしまう。
それは散文的言語では表現できなかったために、演劇空間を必要としていたはずなのだ。
けれども今回のように演劇空間の放つメッセージが散文的言語に託されてしまったら、
演劇空間でしか表現し得なかった「大事な何か」がなくなってしまう。
そのことが気にかかる。

もちろん岡田さんはこんなことは十分承知の上で、
あえてそうした方法を選択したのだろうけれども、
僕にとっては面白いと思えなかった芝居だった。