とてもちっぽけな

数ヶ月前からコンビニでアルバイトをしているのだが、ふと強く思うことがある。
ささいなことだけれども、
ああ、世界にはこれだけたくさんの、自分の知らない人がいて、
自分はこの人たちと一生のあいだほとんど関わることがなく生きていくのだな、というか、
そんな気持ちを抱くことがあるのだ。
コンビニには、日々たくさんの知らない人々が訪れ、去っていく。
あるいは、都会の真ん中なら数え切れない多くの人と遭遇する。
けれどそういうとき、常にそんな気持ちになるわけではない。
そんな気持ちになるのは、こんなときだ。
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最近のコンビ二では代行収納というやつをやっていて、
銀行の振込み業務を代行する、という業務がある。
そのとき振込み用紙に記入されたお客さんの名前を見ると、そんな気持ちが湧いてくるのだ。
振込み業務のときにだけそのようなことを思うのも変な気もするのだが、
なぜかそのとき決まってそう感じる。
それにはたぶん「人の名前を知る」ということが関係しているのではないかと思う。
ただレジで知らないお客さんとやり取りをしているときには、
「あくまで客」という風に意識が働いているのかどうかわからないが、
わりとすんなり業務をこなすことができる。
けれどその人の名前を見てしまうと、関係がひとつちがった段階に入ってしまうのだろう。
その人の生活が想像されてきて、
その名前はたぶん両親から呼ばれ、学校で先生から呼ばれ、友人から呼ばれてきたのだろう、
といろいろなことが頭に浮かんでくる。
そうすると、客と店員という関係から離れて、
その人が自分とまったく同じ重みの生を負った、かけがえのない一人の人と見えてくるのだ。
そしてそんな人と、自分はこの一瞬だけ出会い、
その人についてほとんど何も知らないまますれちがっていく。
それがなんだかとても、くやしいというか、やるせないというか、
心にぽっかりと穴が空いてしまうような、そんな気持ちになる。
そんなこと思ったってしょうがないということは百も承知なのだけれども、
それでもそんなことを思ってしまうのは、
そのとき、自分がこの世界で、とてもちっぽけに見えてくるからだろうか。
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人類学者のレヴィ=ストロースによれば、
ナンビクワラ族の人たちは人の名前(固有名)に特別な力があると考えているそうだし、
この前テレビで放送していた『ゲド戦記』にも、
人の真の名を知ることはその人に対する支配力を得ることになる、という場面があった。
固有名の力というのは、どこか遠い場所の話ではなくて、
わりと身近なところにも存在しているものなのだろう。