ミシマ社通信から

こないだ行った松江のartosという書店で、
『いま、地方で生きるということ』西村佳哲著(ミシマ社)を買ったのだが、
そこに挟まっていた「ミシマ社通信」におもしろいことが書いてあったのでここにメモ。

先日、京都の鴨川を歩いていてあることに気がつきました。
多摩川と鴨川、一見して、そこにいる人に違いがある!」。
さて、何がそんなに違うのでしょう?
おわかりになられましたか。
答え(というより、私の思いこみ)は
鴨川にいる人の方が、圧倒的に上半身、裸!!
ベンチに寝そべっている人も、だべっている学生さんも、ジョギングしているおじさんも、
裸、裸、裸!
京都で生きる、ということは、そういう「文化」に慣れることも含めてなのかもしれません。
(「ミシマ社通信」三島より)

ここで三島さんがいっていることに、僕もけっこう肯けるところがある。
僕も多摩川よりも鴨川の方が開放的な気分になれると感じる。
けれどここでちょっと不思議なのは、「保守的」といわれることの多い京都の鴨川の土手の方が、
東京の多摩川よりも人々が開放的になれているというところだ。
これはどういうことだろうか。
このことは、両都市の地政学的なちがいによるのではないかと思っている。
東京はかなり流動性の高い場所だ。
国内外から、関東平野という障壁のない広大な平野へ、
鉄道の駅・港・空港を通して日々たくさんの人・モノ・金が流れ込み、去っていく。
このような強い流動性に対して、
そこで生活する人々は、自らの身を守るため、ある程度防御的にならざるをえないように思う。
これに対し京都は、山で囲まれた盆地であり、
首都からも離れているため、東京ほどの流動性はない。
したがってその内にいる人たちには、外部に対する一定の閉鎖性のもとで、
京都という限られた空間内においてだが、ある程度の解放性を保障されるのではないか、と思うのである。
だから鴨川ではみんな裸になるのではないだろうか、と。
以上大雑把な推測ですが、
もしかしたらそうかなと、ときどき感じていたのと同じようなことがミシマ社通信にも書いてあったので、
やっぱそうなのかなと思って書いてみました。