記憶のエチカ

忘れてはならない、
記憶しなければならない、
ということがある。
例えばいま、東日本大震災のことを考えている。
しかし、なぜ、記憶しなければならないのだろうか。
それはいったい何のために?
ときにその言葉が説教くさく、窮屈に感じられるのはなぜだろうか?
あたまの中にこういう考えがぼんやりと続いている。
そういうわけで、ちょっと考えてみたくなった。
わたしたちは東日本大震災を忘れてはいけない、
のだとしたら、
何のために、記憶しなければならないのだろうか?
***
それは、二つの方向にわけられるように思う。
一つは回復可能なもののため。
二つめは回復不可能なもののため。
回復可能なものというのは、これからの生活、未来のことだ。
目の前で、大変な出来事が起きた。
たくさんの人が亡くなり、たくさんのものを失った。
生き残った人々はそれを回復していかなければならない。
生きているかぎり、それは可能だ。
回復していくために、あのようなことがこの先二度と起こらないように、
あるいは災害が起こること自体は避けられないとしてもその被害を最小限にくい止められるように、
出来事を記憶していく必要がある。
これが第一の方向。
第二の方向とは、
回復不可能なもの、もう取り戻しえないもの、
つまりは死者にかかわることである。
生き残った人たちは、死者たちをおいて生き残ってしまった。
なぜ、あの人は亡くなったのに、自分は生き残ってしまったのか。
なぜ、自分は死ななかったのか。
あの人の方が自分などよりずっと良い人で、有能な人間だった。
生きていれば、もっと世の中の役に立ったはずだ・・・
そのような生き残りの人間にとって、死者を忘れることは不可能だろう。
死者を思い出すことは苦しいが、死者を忘れてしまうことはもっと苦しい。
だからやはり、死者を、あの人を殺してしまった出来事を忘れるわけにはいかない。
これが第二の方向。
***
ところで、第一の方向の回復可能なものについては、
災害の経験を共有してない人でも、
つまり被災者でなくても理解可能である。
それは「有効な災害避難の方法」というような形で理性的に理解することができ、
したがって普遍化可能である。
それは被災者でなくても未来のための知識として共有できる。
だからこちらは被災者でなくとも到達しうる方向だ。
けれども第二の方向に関してはそれが難しい。
亡くなった人は、もうこの世界に存在していない。
そしてこれからもこの世に存在することはない。
そうであるからこそ死者は死者と呼ばれる。
だとしたら、被災者でない人はこれからその死者に会うことはなく、
生き残った人の死者に対する思いを共有することは永遠にできない。
記憶する対象がもうこの世に存在していないのだから、それを直接記憶することは不可能だ。
だから被災者にとっては死者の記憶は必然的なものでも、
そうでない人には、その出来事を記憶することは必然ではない。
「あなたはそれを記憶しなければならない」といわれたとき、いくらかの窮屈な感じを抱くのは、
そのためではないだろうか。
とはいうものの、
「そんなこと自分にはまったく関係ない」と言い切ってしまうことにも、
少なくないためらいの気持ちがまじる。
たとえば僕なら、死者を生み出した出来事を記憶することと記憶しないことのあいだで苦しむ人に出逢うとき、
それは自分には関係のないことだ、と言い切れなくなってしまう。
これも、もう一つの方向(三つめ)を示す大切な事実だろう。
ここから記憶の倫理(エチカ)について考え始めることができると思う。