「大人」になるとき

人はいつ「大人」になるのか。
このことについて先日友人と話すことがあった。
僕はこの問いの答えを内田樹さんのブログで教えてもらったと思っていたのだが、
なぜか検索しても見つからない。
記憶ちがいだったのだろうか。
あるいは内田さんではなく加藤典洋さんに教えてもらったのかもしれない(あるいはレヴィナスかも)。
まあしかし自分なりにいろいろ勝手に咀嚼していると思うので、オリジナルとすこし違っている可能性もある。
というわけで、このことについて自分なりにちょっと整理してみようと思う。
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人はいつ「大人」になるのだろうか?
あるいは、「大人」になるための条件とは何なのだろうか? 
年齢的なもの、つまり成人したときだろうか。
あるいは就職して自活できるようになったときか。
もしくは子どもができたとき?親を亡くしたとき?
この答えには、どれにもそれなりに納得できる。
けれども同時に完全には納得できない部分も残る。
こういう経験をした人たちで「大人」だなと思える人はたくさんいるけれど、
必ずその全員が「大人」といえるかというと、怪しいこともあるからだ。
また逆に、これらの条件のうちどれも満たしていなくても、
「こいつ大人だな…」と思う相手に出会うこともある。
要するに(一生懸命苦手な数学的公式を思い出しながらいえば)上であげた条件は、
「大人」となるための十分条件ではあるけれど、必要条件ではないということだ。
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そうであるとすると、「大人」となるための「必要条件」とは何なのだろうか。
それは、ある意味とても単純だ。
「わたしは大人にならなければならない」
そう自覚すること。
これが「大人」の条件だと思う。
自分がそう思い考えるだけでいいのだから、簡単そうである。
けれども、その自覚は、自分一人で得られるものではない。
そこにはある他者、おそらくは自分よりも幼く、弱い他者が必ず介在しなければならない。
「わたしは、この人に対して、大人にならなければならない」
自分がこの他者に対して大人にならなければ、
彼/彼女は決定的に傷つけられ、損なわれてしまう可能性がある。
だから自分が「大人」になり、その他者を守らなければならない。
そのように自覚するとき、人は「大人」になる。
成人や社会人、子どもをもった人、親を亡くした人たちが「大人」の十分条件を満たしているというのは、
そういう人が、必然的に自分よりも幼く弱い他者と深く関わる機会をもつことになるからだ。
その他者に対して自分が「大人」にならなければ、その人が大きく損なわれてしまう、
そう感じる場面に遭遇することが多くなるからだ。
これが「大人」のなり方だと思う。
「大人」とは自分一人で勝手になろうと思ってなるものではなくて、外的条件に強いられてなるものなのだ。
そしてまた、そのような状況に遭遇しても「大人」にならなければいけないという自覚をもてない人は、
身体的には大人でありながら、いつまでたっても「子ども」にとどまる。
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では、一度「大人」になった人は、それから先ずっと「大人」のままなのだろうか。
その人は「大人」という確固とした存在になるのだろうか。
言い換えれば、
「大人」というのは、一度そうなると他ではありえない固定的な実体のようなものなのだろうか。
僕はそうではないと思う。
自分が守るべき他者に対しては「大人」になれる人も、
自分よりも「大人」な人、具体的には年長者や尊敬する人に対しては、弱みを見せたり甘えたりすることがある。
こころの中で、亡くなった親や年長者に甘えることもあるかもしれない。
あるいは人によっては、宗教的な超越者、
例えばユダヤ教徒のように「父なる神」に対して「子ども」になるということもあるだろう。
このように、ある場面/関係の中では「大人」である人が、別のある場では「子ども」となることもある。
だから「大人」とは、「である」ものというよりも、
状況によってそう「なる」もの、といった方がより正確かもしれない。
人は「大人である」のではなく、「大人になる」。
もちろん年齢を重ねるにつれ、多くの人は「大人」に「なる」ことを迫られる場面が多くなり、
「子ども」に戻れる機会は少なくなってくるのだろうけれど。