春になったら苺を摘みに

最近、自転車に乗るのが好きだ
だいぶ前から、自転車は自分にとって単なる移動手段になってしまっていたのだが
井の頭公園の坂道を走っていて
じんわりとむかし感じていた楽しさが思い出された
小さい頃は、どこにいくともなく同じ道をぐるぐると走り回っていたものだ


公園では、閑散とした枝の間にコブシの花の白い差し色が際だっていて、
桜の枝は開花にむけて準備万端という様子で、そわそわしているようにみえる
公園の木々と池の水面を見下ろしながら坂道を上って、くだる
むやみに風を切っているだけの、ただそんな運動が、とても心地良い

               *

本を読むこともけっこう楽しいし、好きである
けれどふだんは好みというより義務感で読んでいる場合が多いので、
いつのまにか、せかされる気持ちだけが残って、本来感じていた楽しさが消えてしまっていることがある
それはとてもさびしいことだ


だから、ふとした偶然で本と出会うことは
「勉強」のために読むのではない、純粋な楽しさを思い出させてくれる貴重な機会だったりする
梨木香歩さんのエッセイ『春になったら苺を摘みに』も
すすめられて読んだ本だ。
形式が似ているから須賀敦子さんのエッセイを思い出したが
須賀さんの文章よりも「春めいている」ように感じた
といってものんきにぼんやりしているという意味ではなく
とごろどころで緊迫した部分も垣間見える
たとえば

この歳になってようやく、
自分がどういうものに興味を持ち、どういうものに全く無頓着なのかわかってきた。
私は例えばコソボ紛争の政治的な成り行きにはあまり関心がない。
しかしその結果、アレキサンダーたち姉妹が幼い頃に親を目の前で失い、
その生い立ちのために特異な価値観を形成するに至った過程には、
理解したいという欲求が強く起こってくる。


この姿勢にはつよく共感する
人間を芯から、しかも持続的に動かす力は、このようなところから生まれてくるのではないだろうか
絵本作家でもある梨木さんの本を、いくらか子供が絵本を読むように、楽しんで読みました。