「父」と「子」の演劇

東京芸術劇場で、マレビトの会の『声紋都市-父への手紙』という芝居を観た。
演出を担当する松田正隆さんの、実の父親をテーマとする芝居だった。
その意味では、このプログラムはごく私的なものといえる


この芝居は、サブタイトルの由来ともなっている、フランツ・カフカの『父への手紙』という作品と似た構造をもっている
カフカはそれを、作品としてではなく純粋に父への手紙として書き、とはいえ実際にその手紙が父親に読まれることはなかったという
その手紙が、現代では文学作品として読まれることになった
ということは、カフカの手紙が、私的なものながら文学作品としてのなんらかの普遍性をもちえていたということになるだろう
『声紋都市』という作品も、演出家の私的なことがらにとどまらず、多くの観客にうったえかけるものをもっていたと思う


カフカの作品とともに『声紋都市』が表現しているのは、「父」と「子」の圧倒的な「非対称性」だといえる
カフカは、父親を選ぶことができずこの世に生みだされ、そのせいで自らが被ることになった悲劇を、ひたすら尊大な父親のせいにする
『声紋都市』にあって演出家は、父親の第二次世界戦争への関与と天皇への共感を批判し、しかしそれを正面から父親に問い詰めることができないでいる
両者とも「父」を強く批判し、ひたすら否定しようとするのに、結局「父」から逃れられない


非対称性とはつまり、「子」は絶対に「父」を選ぶことはできず、どのような形であれ「父」の存在を引き受けざるをえない、その「どうしようもなさ」のことだ
「父」と「子」二人だけの関係では、「子」は「父」の尺度に従わざるをえない
なぜなら後から生まれてくる「子」が最初から自らの尺度をもっているはずはなく、「子」は「父」の尺度を受け入れることしかできないからだ
たとえ「子」が成長して「父」の尺度を拒否しようとしても、否定的な形でやはりその尺度に依存してしまい、そこから完全に逃れることはできない
そのような「どうしようもない」関係ゆえ、「父」と「子」のあいだはきわめて私的で、
本質的には二人の間に論理的正しさなど、ほとんど必要とされていないような気すらする


いつも不思議に思っていたことで、今回の芝居を観てひとつ気がついたことがある
全共闘世代からもう少し下の世代のうちに、どうしてあれほどまでに日本の戦争責任を深く問い詰めようとする人が多いのか
彼ら/彼女ら自身は戦争を知らずに生まれたはずなのに、あれほどまでに強い衝動を生み出しているものは何なのか、つねづね不思議だった
しかしそれは、自分の父親が戦争に加担し、国家の名において殺人を犯したかもしれないという事実を引き受けなければならなかったからではないだろうか
自らにとって圧倒的に大きく、「どうしようもなく」切り離しえない「父」という存在が、国家による殺人を手伝っていたかもしれない
そのような疑いを抱きつつ「父」を受容するという作業が、日本国家の戦争責任の追及という形で現れているのではないだろうか
人間を持続的に駆り立てるパッションとなるには、論理的正しさだけでは十分ではない
精神や身体の奥深くに染み込んだ「体験」が、彼ら/彼女らのパッション、つまり情熱であり同時に受難ともなっているように思う


この世代のような強い衝動は、もっと下の世代にはない
僕自身の家族でも、戦中世代は祖父の代だし、父と祖父とでは距離感がまったく異なる
だから、全共闘世代が社会の一線から退くことになれば、日本の過去の戦争に対する見方もだいぶ変わってくるように想像される
過去の日本の戦争責任をこれからどう考えるのか、それは僕たちの世代が引き受けなければならない問題となる
そのことをあらためて考えさせられた