『ハウル』をみて

先日『ハウルの動く城』を見た。
キムタクの声が少々うるさすぎるし、まだナウシカラピュタほどの思い入れは感じないが、
それにしても、けっこうよい映画だと思った


とくに主人公ソフィーの描き方がとてもいい
誰しも感じているであろう、内面に秘められたこころの動きを、
少女から老婆の間を揺れ動く、外面的にあらわれる年齢によって表現したところに、宮崎駿の詩心を感じた
くわえてハウルの城は、ハウルのこころそのものではないかと推測した
しかし、そのことをくどくど説明するのも野暮なことになってしまうだろう


そういうわけですこし別の話しをすると、
世間にはいわゆる「芸術性の高い」作品といわれるものが存在する
ハウル』を見て、そのことについてすこし考えることがあった
一般に「芸術性の高い」作品は、「わかりにくい」といわれることが多い
それはなぜなのだろうか?


その理由の一つはおそらく、内面の秩序を、外面的に投影しているからだと思う


内面と外面では、ものごとのあり方が根本的に異なっている
ここでいう内面とは、人のこころの中で起こっていることで、
外面とは、こころの外の世界、つまり物理的世界のことを考えている
それら両者では、ものごとのあり方の秩序がまったくちがっている


こころの内面では様々な「おもい」が同時に存在し、
それぞれの「おもい」の境界もあやふやで、いろんなものが同時に共存している。
それに対して外面つまり外の世界では、一人の人が認識できる範囲では、ものごとは一つ一つ順番に起こる
物と物との境界は明白で、ひとつの場所にはひとつの物しか入りきらない
だいたいの物は自由に手に取り、思うままにあつかうことができる。


そして、人のこころは、いうまでもなく、そうはいかないのだけれど。


「芸術性の高い」作品の場合、相入れないはずの内面の秩序と外面の秩序を
混ぜ合わせていることが多い
というか、内面秩序を無理矢理、外の物理的世界に投げつけているのだ
当然そこには表現上の無理が生じ、作品の世界内に「亀裂」が生じる
一般に、その投げつけ方が成功しているかどうかが、「芸術性」を構成することになっている


そんなふうになっているのだから、
作品を見るときにふだん外の世界で起こるような具合にものごとが起こると考えてはいけない
作品の中では、たくさんの「ありえない」ことが起こる
そしてその「ありえない」こととはまさに、人のこころの内面のあり方なのだ


生物学的には(外面的には)、人が一瞬で年をとったり若返ったりすることはない
時間の流れは不可逆的だから、そんなことは「ありえない」
けれどソフィーは老婆になり、少女になり、そしてまた老婆になったりする
それはまさに、ソフィーのこころの動きのあらわれにほかならない


新たな一歩を踏み出そうとするとき、その成功が確実なわけではないとき、
冒険をするより、老婆のように分別くさく、冒険をあきらめてしまった方が楽だったりすることがある。
けれどもまた、そのような一歩への躊躇よりも未来への希望が勝っているとき、
人は、走りまわる子供のように、軽やかなステップを踏むこともできる。


ソフィーも、そんなふうに揺れていた