1984年

台風のせいか、雲が飛行船のようなスピードで空を流れている。
そんな中ちょっと気が向いて、村上春樹について書いてみました。
短いのでたいしたことないですが(少し修正しました)。

1Q84』という、ひとつの時代をそのタイトルに冠した村上春樹の作品が、世間を騒がしたことは記憶に新しい。
ところで1984年という時代の記憶は、村上作品を享受する現代の若い世代の多くには、ない。
私たちはおぼろげに、過去を想像することしかできない。
だから読者のなかには、筆者のように1984年という時代の刻印を求めて『1Q84』という作品のページを繰った者も少なくないのではないだろうか。
けれども、そのように期待してこの作品に近づいたものが味わうのは、ひとつの小さな落胆である。
なぜなら本作品には、過去の時代の痕跡から生じる違和感・断絶感を感じさせる要素が含まれていないように思われるからである。
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1Q84』に比べて、村上が1984年に執筆していたはずの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』からは、明らかに現代とは異質の空気が放たれている。
それは、ごく大雑把にいえば、生存の欠如を満たすための発展が終わり、行き場を失ったエネルギーが都市のなかで空転し、世界をどんどん複雑化していく時代の空気を伝えている。
未来は、特に明るいというわけでもないが、暗くもない。
ちなみにこの本は、箱入りでサーモンピンク一色という装丁である。
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これに対し『1Q84』の物語は、現代の現実世界と地続きになっているといわれてもほとんど違和感がない世界のなかで展開している。
言い換えれば、筆者は天吾と青豆の生活の雰囲気を、同時代人としてもすんなりと受け入れることができる(『世界の終り』ではそうはいかない)。
しかし、だとしたらなぜ、村上は1984年を選んだのか?
おそらくジョージ・オーウェルの作品との関係だけでは説明しきれないこの問題が、筆者の心に引っかかっている。

うーん、どうして1984年なんでしょうか・・・