都市の異和感

東京という都市とはいったいどのような場所なのだろうか
眼前に巨大にそびえるその場所にこのような問いかけをすることは
あまりに無力で、ほとんど無意味なことなのかもしれない
自分がその中で暮らすその場所は、けれども、時々ひどく異様に映ることがある
その異様さの中心をなしているのは一体何か
時々、否応なく考えさせられてしまう


その異様さには、「近代化」ということが関係しているのではないかと、最近考えるようになった
そういうわけで、ある側面から、近代化ということを考えてみたい
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人間は近代以前、つまり原初的には、生きていくために直接自然と関わらなければならなかったはずだ
たとえば食べるためには土を耕し、陽光と雨水を頼りとしなければならないし、
住まいを造るためには辺りの木を伐り、土で家の壁を塗らなければならない
住まいは、ある地域では、強風をしのぐために山の陰を選んで建てられただろうし、
氾濫のおそれのある河川のそばは、避けて建てられただろう


このような原初的な人間の営みを大きく変えたのは、エネルギー革命だった(おそらく)
それは、以前は自然の他には人力や家畜の力に頼るほかなかった人間社会に、
石炭という、巨大なエネルギーを発生させる燃料を獲得させた
その新しいエネルギーは、ある程度人々を自然と直接かかわることから解放した
たとえばある場所で大量に生産された食物や資材を、
遠く離れた場所で暮らす人々のもとへエネルギーを使って輸送し、
彼ら/彼女らから自然と直接かかわる度合いを減らした


それは人間にとって必要なことだったと思う
なぜなら自然の直接性は、人間にとって危険でもあるからだ
自然と直接かかわることは、自然に全面的に依存することになって、
地震や台風、洪水や冷害など、ときに荒々しさを見せる自然に生命を脅かされることを意味する
そのような危険からの解放は、人間にとって生きていくために必要なことだった


以上の、ある側面から見た人類史(大変お粗末ですが)をふまえると、
「近代化」とはひとまず、
危険をはらむ自然の直接性から人間を解放するプロセスだったということができると思う
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このような「近代化」の視点から、再び現代を眺めてみたい


現代世界において人間は、自然の直接性とそれからの解放(近代化)という、
二つのベクトルの間で生活しているという見方ができるのではないだろうか
たとえば途上国なら前者に、先進国の都市なら後者のベクトルに近い、という風である
どちらのベクトルに近いかは、地域により異なってくる


東京は、このベクトルが「近代化」の方にほぼふれきった場所だという見方ができると思う
食物は、何重もの人為的な過程をへて製品化され、コンビニの店頭にならべられ、
食物の自然の原型を見ることはすくない
また住まいは、自然環境に合わせて住み方を考えるというよりは、
人為的に環境を新たに作り出す方向へむかう
つまり、厚い鉄筋コンクリートにより周囲を覆い、強風にも耐えられるようにし、
気温や湿度をエネルギーによりコントロールしている
製品化された食物は長持ちするし、
自然環境から自立した住環境は、気候の変化により脅かされることがすくない


東京は、自然を人間の利便性に合わせて改変することで、人間を自然の直接性から解放する、
「世界の人間化」というプロセスの最前線に位置する姿といえるのではないだろうか
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人間化された世界は、人間が自然とほとんどかかわらずに生きていくことを可能にした
そこでは世界とかかわることは、ある意味で、人間とかかわることである
このような東京の姿が、自分にとって異様に見えているのではないかと思う


人間化された世界、つまりすべてが人間の意図に合わせて作り替えられた世界、
そのような世界は、果たしてどこまで進んでいくことができるのだろうか
人間の意図にとって都合の悪いものごとが、都市の外部へひそかに移されていることは、
一つの、まちがいのない事実である
そのような世界で人間は、幸福に生きることができるのだろうか