緩やかな契約

鳥の劇場青年団の芝居を観る機会があった。
鳥の劇場は、鳥取県鹿野町で中島諒さんが主宰する同名の劇団の本拠地となっている劇場だ
今回は平田オリザ主宰の青年団を招致して「カガクスルココロ」と「北限の猿」が上演されていた


青年団の戯曲は暗転を使わないことで有名だ
暗転とは、舞台を一度暗くして、そこを照明で照らすことで芝居をスタートする技術で、
観客を一気に現実世界から演劇空間の中に引き込むことができる
けれども平田オリザはその暗転を使わないという
それはなぜなのだろうか?
「舞台ともっとゆっくり契約を結んでもらいたい」というのが、その理由なのだそうだ


暗転を使わない芝居では、俳優は上演前から舞台にいて、観客が会場に入るとその辺をうろうろしていたりする
観客は俳優の動きを横目に席に着き、上演開始まで俳優のいる空間でパンフレットを眺めたりして待つことになる
青年団の芝居は、いちおう上演開始時刻は決まってはいるのだが、このように実際にいつ芝居が始まったのかは決定しがたい
そのなかで観客はゆっくりと演劇の時空間にとけ込み、ストーリーに寄り添っていくことができる


僕は青年団のこいう点は、けっこう嫌いではない
一般に芝居だけでなく映画でもそうだが、いつも最初のシーンをいきなりつきつけられ、一生懸命それにすがりつこうとするのだが、
あとから振り返ってみてそれをまったく思い出せないということがよくある
それは最初のシーンを見るとき、文脈(コンテクスト)なしにシーンを見なければならないからだと思う


人間はものごとを、様々なコンテクストの下で、他のものごとと関連づけながら理解していく
黄色が「黄色」であるとはっきりわかるのは、黄色を見たあとで、「赤色」や「青色」を見てそれらと比較することができるからだ
他の色が何もない状態で黄色だけが目の前にあっても、それが「黄色」であるとはおそらく認識できないだろう
黄色が「黄色」であるとわかるためには、
目の前にある色は様々な「色」のうちのひとつである、というコンテクストが必要とされている


芝居や映画の場面の把握についても似たことがいえると思う
シーンの把握のためにはコンテクストが必要とされる
しかし観客は芝居や映画の始まりに、いわば現実世界のコンテクストから切り離された状態で、
作品中のまったく異なる時空間に投げ出される
そこではまだ現実世界とは別の、作品のコンテクストは生まれていないから、
最初のシーンを組み込むためのコンテクストを見つけることができず、
シーンの把握があいまいになる
だから記憶にも残りにくいのだと思う


このように作品の始まりの時点にはコンテクストは原理的に存在しえないもので、
それは作品が進行するにしたがって次第に生まれていくものだ
平田オリザの狙いは、しかし、このような芝居の構造を破壊することにあったのではないか
つまり作品の始まりの時点では存在しないはずのコンテクストを、
観客がなんとか生み出していくためのいわば準備期間をつくるために、
暗転を使わないという技術を編み出したのではないだろうか


とまあ言葉にするとけっこう大げさになってしまいますが、
要するに、実際に芝居を観てみて、「なんか心地いいなあ」と感じた、ということでした