「曲げられない女」

ついつい、『曲げられない女』の最終回をみてしまった
テレビの連ドラなどここ最近あまり見ていなかったのだが、
菅野美穂の芝居がうまくて、これにはけっこう魅入ってしまった
そういえば同クールに、『まっすぐな男』というやつもやっていた
こちらは、面白さや完成度の点では前者に劣るように思ったが、
テーマが似ていたから印象に残っている


これらのドラマの主要なテーマは、
ひとは、社会や組織、さまざまな権力からかけられる圧力に対して、
自らのもつ信念を、守り、貫き通せるかどうか、ということだったといえる
どちらのドラマにおいても、自分の信念を曲げない主人公が、
意志の強さに憧れつつも、権力的なものに妥協してしまう周囲の人々に、
徐々に影響を与えていくという物語だった


不思議に思ったのは、なぜ今この時代に、このような物語が人々から求められているのか、
ということである
(同クールに二つもこのようなドラマが放映されるというのは、
 脚本家個人の志向のみならず、
 多くの同時代人の欲求を反映しているといってよいと思う)
権力的なものと、それに対して妥協と抵抗の間で葛藤を抱く個人というドラマのテーマは、
いつの時代にも変わらず存在したはずである
にもかかわらず、
なぜこの時代に、権力的なものに対して自分の意志を曲げないという理想像が
多くの人々に求められているのか、ということが引っかかった


というのも、現代は、これまでの時代にくらべれば
個人を束縛するしがらみは、はるかに減少しているように思われるからである
なにをするにも、家族や親類、隣近所の意向を尊重しなければならなかった数十年前よりも、
都市部の若者などは、はるかにしがらみは少なく、
権力的なものとの葛藤の場面は少ないだろうと想像される
そのような時代に、なぜ、「曲げられない女」や「まっすぐな男」が求められるのだろうか