『1973年のピンボール』

この本もかなり久々に読んだのだけれど、
こちらが年齢を重ねたせいか、
以前に読んだときよりも物語の輪郭がはっきりして見える。
前には読み飛ばしていたようなフレーズが、はっきりと目にとまる。
たとえばこんなところ

僕たちはもう一度黙り込んだ。
僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。
それでもその暖かい想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。
そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでのつかの間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。
(『1973年のピンボール村上春樹著、講談社文庫、166頁)

上に引用したのは、
「僕」が、消えてしまったピンボールの台と再開して、会話を交わす場面。
ピンボールの台と「僕」とは、ゲームセンターがつぶれてしまったので、
もう同じ時間を共有することはできなくなってしまった。
それでも「僕」のうちには、ピンボールとかつて共有した「暖かい想い」や「光」が、
ずっと残りつづけている。
そしてそれとともに「僕」は生きていくことができる。
そのようなことを述べた一節だ。


「さよならだけが人生だ」という詩のフレーズは、
たしかに一面では真実を言い当てているかもしれないけれど、
それだけではあまりに寂しすぎる。
将来やってくるかもしれない別れのときには、
1973年のピンボール』のこの一節を思い出そう、と思った。