広がりのために

先日2月25日、鳥取市で島根原発についての講演会が開かれた。
主催したのは、昨年3月11日の地震による福島第一原発の事故をきっかけとして集まった鳥取に住む女性たち。
(団体名はさよなら原発市民ネットワーク・とっとり。後に、えねみら・とっとり‐脱原発とエネルギーの未来を考える会と改称。http://blog.canpan.info/enemirabird/

講師に迎えたのは芦原康江さんと土井淑平さん。
芦原さんは島根原発増設反対運動の代表で1980年以来反原発の運動に取り組んでおられ、
講演会では島根原発の安全性についての疑問点を簡潔に説明された。
土井さんは元共同通信社記者で、
かつて青谷で持ち上がった原発立地計画を阻止した運動の中心となった人であり、
人形峠のウラン残土の問題についても積極的に活動されている。
当日は原発についてマスメディアがきちんとした情報を伝えているのかという点に対して批判的な話をされた。

両者とも長く反原発の運動に取り組んでこられてきたわけだが、
お二人の話を聴いてみて、その語り口は対照的であるように思った。
淡々と静かな口調で島根原発についての事実を報告されていたのが芦原さん。
他方で、土井さんももちろん事実に依拠はしているのだろうけれども、
全体的に感情的で、ときどき声を荒げ、アジテーションのような雰囲気を感じさせた。
また土井さんの論点は、原発にとどまらずアメリカや戦後の問題にまで広がっていった。
僕としては、芦原さんの話し方には好感をもったが、
土井さんの語り方には疑問を感ぜざるを得なかった。
以下、その疑問点についてすこし考えてみた。

1.語り口について
脱原発を目的とするのならば、やはり感情的なアジテーションではなく、
冷静に事実を伝え、あとはそれを聴く人の判断に任せるべきではないだろうか。
なぜかというと、アジテーションは、すでに(脱原発という)価値観を共有している人とのあいだでならばよいが、
そうでない人とはコミュニケーションの回路を遮断してしまうおそれがあるからだ。
アジテーションは、自分の言うことに賛同できないやつはおかしい、というメッセージを暗に含むから、
賛成しない者を排除しようとする傾きをもってしまう。
だから中立の立場で参加した人には、その場は極めて排他的に感じられるだろう。
そうなると、開きかけたその人とのコミュニケーションの回路が切断されてしまう。
(たとえば原発についてよく知らず、純粋に少し勉強してみたいとだけ思って参加した人は、
いきなり反原発への熱狂的な雰囲気を見せつけられても、当惑し、引いてしまうかもしれない。)
必要なのは感情的な扇動ではなく、参加者が原発に関する基本的な事実を知って、
それならば原子力発電を続けるよりも脱原発に向かった方がよいと、自ら判断できるようにすることだと思う。

2.イデオロギーについて
土井さんが原発の問題をアメリカとの関係や日本の戦後の問題など、
古典的な左翼的問題設定とすぐに結び付けようとするところにも問題を感じた。
たしかに土井さんが言うように、原発の問題は最終的には国家間レベルの政治問題につながっていくだろう。
けれども安易に左翼的な問題の枠組みを持ち出すと、議論が雑になってしまう。
いま原発について人々の関心を引いているのは、もっとプラクティカルな、生活と直結する問題である。
そんなときに突然「アメリカ帝国主義反対!」のようなことをいわれても、
「うーん、それはそうなんだけど、でも今それはちょっとちがうかな…」と首を傾げてしまう。
原発については、もう少し日常生活の実感に寄り添った議論をすべきであるように思う。
アメリカとの関係や国家の体制にかかわる問題は、原発よりもはるかに複雑である。
それらがごっちゃになると、
3.11以前まで国や電力会社が(反原発をいうやつは過激な左翼だ、といって)行っていたように、
原発に対する賛否が再びイデオロギーの問題とすりかえられてしまうかもしれない。
そうなると脱原発への動きは広がりをもてなくなってしまうだろう。

と、ここまで生意気に土井さんに対して批判めいたことばかり書いてきたが、
いま鳥取原発がないのは土井さんをはじめとする年長世代のおかげである。
そのことについてはいくら感謝してもしきれないし、敬意の気持ちも持っている。
そのことを十分に認めたうえでなお、現在必要とされているのは彼ら/彼女らとはすこしちがったやり方なのではないか。
そう思ったので、ここにすこしそのことについて書いてみた。