自分の耳で、決めなくちゃいけない

音楽を聴いたときの実感を言葉を見つけることについて、村上春樹『古くて素敵なクラシック・レコードたち』にまつわるインタビューより。

ーどうやって、その言葉を探すのですか?

見つかるまで、しつこく。どんな気持ちでこの音楽を聴いたのか。それが、どんなところに自分を連れていったのか。自分の実感にふさわしい比喩が浮かび上がってくるまで探します。正しいと思える言葉が見つかったときは、すごくうれしいです。そういう仕事に、僕はやっぱり向いているのだと思います。

僕がこの本で一番言いたかったのは、「自分の耳を信じてほしい」ということです。これが歴史的名盤だとか、この演奏家が偉大だとか、そういう情報はいまの時代にはいっぱいある。でも、そういうのはやっぱり自分の耳で決めなくちゃいけないことなんです。自分で決めるってのは、ものすごく骨の折れる作業です。でも、それをやらなければ、音楽を聴く意味はないんじゃないかと思うんですよね。

戦前に演奏されたバッハは、いまの時代のバッハとは全然違う。さまざまな演奏の積み重ねを「精神の歴史」としてたどるのは、人間の魂にとって、実はとてもたいせつな作業だと思うんです。レコードがある時代に生まれたからこそ、僕はいろんな時代に優れた演奏を見つけることができる。長く生きてきて良かったなと思います。(朝日新聞 2021年8月1日朝刊)