歌の約束
5月、加藤典洋さんが亡くなった。
自分が年齢を重ねるにつれて、知った人が亡くなることが増えている。
そのことは仕方ないことだし、受けとめざるをえないことだ。
鶴見俊輔さんも石牟礼道子さんも好きだったけれど、亡くなった。
生前に会っておきたかったと思うけれど、二人とも長生きをされたし、
だからその死を受けとめてはいる。
けれど、加藤典洋さんの死は、どうしてこんなにもかなしいのだろう。
その夜、京都で寺尾紗穂さんのライヴがあり、彼女の歌を聴いていた。
寺尾さんの音楽は以前から好きで、よく聴いていたのだけれど、
この日のライヴは特に何かが込められたようなよさがあった。
7年ほど前に大阪で観たライヴから、
寺尾さんは歌い手として先へ進んでいるように思えた。
最後に歌われた「アジアの汗」は、久々に聴くと全然ちがった風に勇気づけられる感覚があったし、
会場の音止めの時間ギリギリで歌われたアンコールの「楕円の夢」は、
何かたくさんのものを労わり、慰めるような、
いまはそこにいない人への感謝と別れを、息切れするように言い表そうとするような、
そんな感動があった。
どうしてこんなにいい音楽を聴いてしまったのだろう。
不思議とそう思ってしまうような時間だった。
歌い終わった寺尾さんは、そんな感動をよそにケロっとした表情をしていて、だから余計にそんな風に思ったのかもしれない。
会場を出ると、雨が降っていた。
鞄に入れていた携帯電話を取り出すと、「訃報」という件名で友人から「加藤典洋さんが亡くなりました」というメールが入っていた。
いったい何を言われているかわからなかった。
僕にとって加藤さんは「亡くなる人」という想定の中に、全く入っていない人だったからだ。
メールには病名も書いてあり、そんな病気で闘病されていたということも初めて知った。
その報らせを受けとめられないまま、雨の中自転車を走らせ、橋を渡って家まで帰った。
雨は弱かったが、それでも自転車を漕いでいると、少しづつ服に染み込んだ。
持ってきていた傘をさしても、それは変わらなかった。
家に帰り、服を脱ぐと、冷蔵庫に入れていたご飯を温めた。
ライヴの前に何も食べていなかったから、お腹が減っていた。
何か食べて、体を温めようと思ったのだ。
こういう時でも、何かを食べようとしてしまう。
いや、こういう時だからこそなのかもしれないけれど。
レトルトの食事を食べていると、雨が強くなっている。
加藤さん。
さっき自転車を漕いでいる時から、何度かその言葉を呟いていた。
風邪で喉の調子が悪く、力のある声は出ない。
食べて、床に横になった。
何をしていいかわからなかった。体は重かった。
メールをくれた友人に電話をしようかと思ったが、いまその人と何かを話せる気がせず、今晩はやめておこうと思った。
横になって大きな雨音を聞いていると、その雨が網戸から部屋の中に入って、フライパンの上の油のように跳ね、自分もそれに包まれていくような感じがした。
翌朝起きて、やっとメールをくれた相手に電話をし、もう一人加藤さんと親しかったYさんとも話をした。
夜が明けてみると、昨日思っていたほど苦しくはなかった。
とはいえ加藤さんが亡くなったということはまだ信じられないというか、実感がわかない。
別の友人が昨晩の僕のツイートを見てくれたのか、加藤さんの死に触れたメッセージが入っていた。
一晩経って、加藤さんの死と、昨日聴いた寺尾さんの歌が重なり始めている気がした。
寺尾さんの歌は、別れの歌が多い。
「楕円の夢」は以前は恋愛のことを歌っているのだと思っていたけれど、昨年にお父さんを亡くされたことを知り、そのことから、死別を歌ったものでもあるということをやっと理解し始めていた。
歌に加藤さんのことが重なった。
寺尾さんが、あらかじめ加藤さんを送り出してくれた。
ライヴで歌を聴いた時、妙に強く心が動かされたのは、そのせいだったのではないか。
そんな風にすら思った。
私の話を聞きたいの
あなたと別れてからのこと
私の話を聞きたいの
会えなくなってからのこと
明るい道と暗い道
おんなじひとつの道だった
あなたが教えれくれたんだ
そんな曖昧がすべてだと
この「楕円の夢」の歌詞が、加藤さんのことと全部重なるわけではないけれど、なんだかその中に含まれる感情が、状況の違いを超えて自分を貫いて響いた。
加藤さんと別れて、自分はこれからどう生きていくのだろう。
歌の歌詞はずっと先の未来から、今の自分を見晴るかしているような、その人と別れた後の自分の時間を遠いどこかの未来で、まるで自らの死後のような時間からその相手に報告しているような、そんな風に書かれていた。
それはその相手との別れが、他のものでは取り替えが効かないもので、相手を失った時点で、自分の一部もどこかでこの世から離れていっているからかもしれない。
けれど別の面から見れば、それは相手を失った後の時間もずっとその人のことを考えながら、その人と一緒にいるという意味に捉えることもできる。
歌に描かれている時間は、楕円のようにその両面を孕みながら、僕たちが社会の中で生きていく時間とは別の、どこか永遠を感じさせる世界に入っていくのかもしれない。
しかしそれでもまた、僕はこの社会の中へ戻っていきたいと思う。
そこでしか、別れた相手との約束は果たせないのだから。
約束とは、その人から教えてもらったことで、自分が変わっていくことかもしれない。その変わった自分で、この世界を生き続けることなのかもしれない。
いつか本当に、自らの生きた時間を歌の歌詞のように振り返る時がやってくるのか、それは僕には、まだわからないけれど。